なぜ”空気を読む力”は日本の強みであり弱みなのか? 忖度文化と創造性のジレンマを超えて

先日、ある若手起業家と話す機会がありました。彼は海外でのビジネス経験も豊富で、日本のビジネス文化について鋭い視点を持っていました。特に印象的だったのは、「日本人は”空気を読む”能力が突出している。それは時に素晴らしい強みになるけれど、同時にとてつもない足かせにもなっている」という彼の言葉でした。

この「空気を読む力」。私たちは幼い頃から、無意識のうちに、あるいは意識的に、その重要性を叩き込まれてきました。学校でも職場でも、家庭でさえも、「場」の雰囲気を察し、それに合わせた言動を取ることが求められます。それは、円滑な人間関係を築き、衝突を避けるための、日本社会における一種の「生存戦略」とも言えるでしょう。しかし、その一方で、この能力が、私たちの創造性や主体性を蝕んでいるのではないか、と漠然とした不安を抱いている人も少なくないのではないでしょうか。

「言わずもがな」の沈黙

私自身の経験を振り返ってみても、「空気を読む」ことに囚われて、本来言いたかったことを飲み込んだり、納得できないことに同意したりしたことは枚挙にいとまがありません。特に会社員時代、会議の場で「これはおかしい」と感じても、上司の顔色を伺ったり、周囲の反応を気にしたりして、結局は何も言えずに終わる、ということが何度もありました。

その時、私は「なぜ自分は意見を言えないのだろう」と自問自答しました。それは単なる臆病さだけではありませんでした。そこには、自分の意見を主張することで、場の和を乱すのではないかという恐れや、もし反論されたらどうしようという不安が混じり合っていたのです。そして、この「言わずもがな」の文化は、私たちの中に深く根差しています。言葉に出さずとも、相手の意図を察し、行動することで、スムーズに物事を進めようとする。これは、一見すると効率的で、摩擦の少ないやり方のように思えます。しかし、そこには常に、「本当の意見」が隠蔽され、「建前」が優先されるというリスクがつきまといます。

集団主義と「場の論理」

社会学的な視点から見れば、この「空気を読む」文化は、日本の集団主義的傾向と深く結びついています。欧米の個人主義社会が「個人の権利」を重視するのに対し、日本社会は「集団の調和」を重んじます。集団の中で円滑に機能するためには、個々人が自己主張を抑え、全体の雰囲気に合わせる能力が不可欠となります。

これは、農耕民族としての歴史的背景や、自然災害が多い中で互いに助け合って生きてきたという経験も影響しているかもしれません。個人が突出することよりも、集団として協調し、共存することに価値を置いてきた。その結果として、私たちは、言葉の裏にある「場の論理」を敏感に察知し、それに対応する能力を培ってきたのです。

しかし、この「場の論理」は、時に強固な同調圧力を生み出します。異質な意見や新しい発想は、「場の空気」を乱すものとして排除されがちです。心理学的には、これは「集団浅慮(グループシンク)」に陥りやすい状況と言えます。集団の凝集性が高まるほど、批判的な思考が抑制され、安易な合意形成へと向かってしまう。結果として、最善の意思決定がなされず、時に取り返しのつかない事態を招くこともあります。

忖度と創造性のジレンマ

「空気を読む力」は、確かに日本の強みでもありました。例えば、繊細なニュアンスを汲み取るサービス業のきめ細やかさや、チームで緻密な連携を取る製造業の現場などは、この能力なくしては成り立たないでしょう。顧客の潜在的なニーズを察知したり、同僚の言葉にならないSOSに気づいたりする能力は、円滑なコミュニケーションと高いパフォーマンスに繋がります。

しかし、その裏返しとして、この能力は「忖度文化」という負の側面を生み出します。忖度とは、相手の意図を推し量り、先回りして行動することですが、それが過度になると、本質的な議論がなされず、上層部の意向ばかりが反映されるようになります。

私がかつて関わったあるプロジェクトでは、誰もが「これは無理だろう」と感じていたにもかかわらず、上層部の意向が絶対であるかのようにプロジェクトが強行され、結局は大きな損失を出して終わりました。後から振り返れば、あの時、誰かが「空気を読まず」に反対意見を述べていれば、結果は違ったかもしれません。しかし、その時誰もが、自分の意見を言うことで発生するであろう摩擦や、責任を負うことへの恐怖に囚われ、沈黙を選んでしまったのです。

この忖度文化は、特に創造性を阻害します。新しいアイデアは、既存の枠組みや「場の空気」を壊すことから生まれます。しかし、常に周囲の顔色を伺い、波風を立てないように立ち振る舞う習慣は、型破りな発想を抑圧し、無難な選択へと私たちを誘導します。結果として、現状維持が是とされ、停滞が生まれる。これが、日本のイノベーションが停滞していると言われる一因でもあるのではないでしょうか。

「空気を読む」から「空気を創る」へ

では、私たちはこのジレンマとどう向き合えばいいのでしょうか。単に「空気を読むな」と言っても、長年培われてきた習慣や文化を根底から変えるのは容易ではありません。

私が思うに、大切なのは「空気を読む」能力を捨て去るのではなく、その使途を意識的に変えることです。つまり、「空気を読んで波風を立てない」という受動的な姿勢から、「空気を読んで、あえて波風を立て、新しい空気を創り出す」という能動的な姿勢へとシフトすることです。

これは、簡単なことではありません。勇気も必要です。しかし、もし私たちが、自分の意見を述べることや、異質な視点を提供することの重要性を心底理解し、それが最終的に組織や社会全体の利益に繋がるのだという確信を持てれば、少しずつでも行動は変わっていくはずです。

企業や組織もまた、多様な意見が歓迎され、安心して発言できる心理的安全性の高い環境を整えることが不可欠です。例えば、会議の冒頭で「どんな意見でも歓迎する」と明言したり、あえて若手や下位のメンバーから意見を聞く場を設けたりするなどの工夫が考えられます。

「空気を読む力」は、日本のコミュニケーションにおける、ある種の「高度な技術」です。この技術を、これまでは「衝突回避」や「現状維持」のために使ってきました。しかし、これからは、この技術を「創造」や「変革」のために活用する時なのではないでしょうか。場の空気を読み、その上で、あえて「違和感」を提示する。その小さな一歩が、停滞した「空気」を揺さぶり、新しい風を呼び込むきっかけになるはずです。

私たちは、もはや「言わずもがな」の沈黙に甘んじている余裕はありません。未来を切り拓くためには、ときに「空気を読まず」、しかし「空気を理解した上で」発言し、行動する勇気が必要とされている。そう強く感じています。